戸山公園の基本情報
以下では「戸山公園」の基本情報についてご紹介します。
歴史
江戸の元禄年間(1688~1704)には尾張藩徳川家の下屋敷だった。明治維新により敷地が政府に明け渡されたのを機に、1873年「陸軍戸山学校」が開校。以後、周辺には多くの軍事施設が軒を連ねるようになる。第二次世界大戦後の1945年、一連の軍事施設が廃止され、跡地が公園や住宅施設として整備され始める。現在の都立公園として開園したのは1954年(昭和29)8月のこと。
備考
総面積は約18万平方メートルで、明治通りによって大きく、西の「大久保地区」と東の「箱根山地区」とに分断される。大久保地区にはスポーツ関連施設が多く、箱根山地区には文教施設が多く存在する。なお、東の「箱根山」は旧陸軍学校があったことが災いし、心霊スポットとして名高い。
利用案内
無料/無休
住所
東京都新宿区大久保3-5-1
アクセス
- JR山手線「新大久保駅」
- 東京メトロ東西線「高田馬場駅」
- 東京メトロ東西線「早稲田駅」
- 東京メトロ副都心線 「西早稲田駅」
電話番号
03-3200-1702
公式サイト
戸山公園の写真や動画
以下では「戸山公園」について写真付きでご紹介します。
「戸山公園・早稲田口」。早稲田大学の文学部キャンパスから程近いところ。公園の東側に当たる箱根山地区へとつながる。
「運動広場」。毎年10月の体育の日には、穴八幡宮の伝統行事「流鏑馬」(やぶさめ)がこの広場で開催される。「流鏑馬」は、新宿区指定無形民俗文化財。
「アスレチック広場」。江戸時代にあった庭園は、約8割が池から成る「池泉回遊式庭園」だったという。現在そうした水場はほとんど見られない。
「花の広場」。徳川家の下屋敷になる前、箱根山地区は源頼朝の武将・和田左衛門尉義盛の領地で「和田外山」(わだとやま)と呼ばれていた。この呼び名が後の「戸山荘」となり、現在の「戸山公園」に受け継がれている。
「ラベンダー広場」。戸山荘時代には、小田原宿の景色を模した町並みがあり、あたかも東海道五十三次を思わせるような絶景が広がっていたという。現在はブルーシートによる簡易宿が多いようだ。
「箱根山・北入口」。心霊スポットとして有名な場所だが、かつてこの辺には25にも及ぶ景勝地が人工的に造られていた。南端には「余慶堂」(よけいどう)、中央には「大泉水」と「琥珀橋」があり、その他の敷地にも築山、渓谷、茶屋などが数多く配されていたという。
「野外音楽堂跡」。何の予備知識もなければ、宗教的な施設だと思ってしまうだろう。平成元年(1989)、「国立感染症研究所」建設のため、この近くの地面を掘り返していたところ、大量の人骨が出土するという出来事があった。これが「心霊スポット」と呼ばれる一因になっている。
「陸軍戸山学校跡記念碑」。明治6年から1945年の終戦まで、ここに陸軍の兵学校があった。昭和7(1932)年、陸軍軍医学校に「防疫研究室」が新設されたが、この研究室を統括していたのが、後に「731部隊」を率いることになる陸軍軍医中将・石井四郎。この史実から、「箱根山=心霊スポット」という噂が広がったようだ。
「箱根山」。標高44.6メートルは、山の手線内における最高峰。元々は寛文年間(1661~1673年)に造られた「玉円峰」(ぎょくえんほう)という、お椀をふせたような形の築山だったが、陸軍用地になった頃から現在の呼称に変わっていった。
「戸山教会」。旧軍時代の「士官集会所」跡地に建っている教会で、「戸山幼稚園」を併設している。
「児童コーナー」。近くには「戸山第三保育園」や「戸山幼稚園」がある。
「スズカケ広場」。スズカケとは街路樹で有名なプラタナスのこと。
「戸山ハイツ」。1~35号棟から成る都営団地で、約7,000人が生活し、その約半数が高齢者だという。
「明治通り」。戸山公園の西地区と東地区とを分断している。西の「大久保地区」は、東京都立戸山高等学校のまん前。
「戸山公園・明治通り口」。戸山公園の西半分に当たる「大久保地区」の入口。新宿コズミックスポーツセンターが目印となる。
「疎林広場」。入口から入ってすぐのところ。「疎林」(そりん)とは、樹木の枝や葉の密度が薄い林のこと。
「ジョギング広場B」。ジョギング中の小休止場。
「新宿区立スポーツセンター」。B1~5Fまであり、プール、トレーニング室、体育館、武道場などを備えている。
「つどいの広場」。大久保地区の北端。隣にあるのが「芝生広場」。
「やくどうの広場」。新宿区立スポーツセンターの真向かいにある小エリア。
「子供の広場」。遠くに立っているのは早稲田大学の理工学部校舎。
「のびのび広場」。大久保地区の南端にあり、「新宿コズミックスポーツセンター」の裏に位置する。